2012年6月21日木曜日

本当にもったいないこと!? 提言その4(最終回)

Facebook「村田租税政策研究所FBグループ」メンバーのひとり、須藤一郎氏からの投稿を転載します。4回の連載形式でまとめられた興味ある提言です。

今回は第四回(最終回)投稿を紹介します。


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まだまだ書きたいことは山ほどあるが、とりあえず本稿で話を一段落させたい。もう一度前回までの話を整理すれば、1.結局のところ共同体の経済厚生を高めることができるのは分業であり、分業を深化させる政策が重要であること、「本当にもったいない」のは、財政支出自体ではなく、歳出削減によって分業の深化が進まくなること、2. 分業を深化させるには、共同体の内部での信用創造が不可欠で、政府債務はその信用創造の役割を果たしていること、政府部門の債務削減は信用創造の削減であり、分業の深化に歯止めをかけかねないこと、3. 但し、国際競争というContextでは国際的分業の深化が進んだとしても、市場での競争力を持たなければ、国という共同体の厚生水準を高めることはできない、ということが要旨であった。消費増税の賛否は、増税・緊縮財政による財政再建か、経済成長による財政再建かというContextで議論されることが多いが、いずれも、財政赤字をどう収斂させるかという「お金」を中心にすえた視点である。個人が一億円持っていたならばその一億円は、家を建てたり旅行したりすることができるという購買力を表象するが、(「政府」という意味ではなく「政府と国民を含めた総体」という意味での)国という共同体に一億円というお金があったとしても、それ自体には何の価値もない。その価値が発揮されるのは、その一億円を媒介として経済活動が行なわれ、家を立てる人・旅行を企画する人が財貨・サービスを供給し、それが消費されるときである。国の政策は前者の一億円ではなく後者の一億円の視点、すなわち「経済活動をおこす」ための「お金」(或いは「債権・債務」)という視点をもって議論されるべきである。

高度に発達した貨幣経済だからこそ、「共同体の経済厚生を高めることができるのは分業によってである」というアダム・スミスの基本に立ち返る必要があるのではないかと思う。スミスは重商主義を批判した。保護貿易によって金銀財宝を国内に蓄積することが国を豊かにするのではなく、国民の消費をMaximizeすることが本当の豊かさだと。Contextは異なるが、財源がないから、支出がもったいないからという理由で、「本当にもったいない」状況を作ることは、国民の消費をShrinkさせることであり、スミスが批判した重商主義、すなわち国民の消費を犠牲にして国が金銀財宝を蓄積することと本質的に同じではないだろうか(現在の日本に置き換えれば、国が借金を返すことで国民の消費をShrinkさせること)。ピーター・ドラッカーが予言した未来の「知識社会」では、資本もお金も必要ない、知識を基軸とした社会で生産が行なわれそれが消費される。こんな社会が来ることを信じられる人は少ないかもしれないが、もしそんな知識社会が到来すれば、政府の債務がいくらだから借金を返済しなければならないという「お金」中心の発想ではなく、価値あるアイデアを機軸として財貨・サービスが供給され、それが消費されるという知識=人を中心とした社会なのではないかと想像する。そこでは、社会の人的資源・物的資源を最大限に有効活用することができ、延いては国という共同体の国際競争力を高めることができるのではないかと想像する。そんな理想郷みたいな社会が実現するわけがないとう批判もあろうが、前近代的な集落的共同体は、「お金」ではなく「人」(或いは「人間関係」)を中心にした社会だったであろうことを考えると、あながち荒唐無稽な話でもないのかもしれない。いずれにしても、財政再建論をはじめ、今の経済・社会があまりにも「お金」自体に価値があるかのように、「お金」中心に議論が展開されており、そのことが「本当にもったいない」状況を作ってしまうのではないかと危惧をするのである。この状況は、後に批判されることとなる前近代ヨーロッパの重商主義思想と本質的に同じではないだろうか。日本の社会の行く末を考えたときに、時代を異にした二人の偉人は、「高度に発達した貨幣経済だからこそ、本当の豊かさとは何かを見失わないように」という共鳴したメッセージを送っているのではないだろうか。

まだまだ書きたいことは多々ありますが、これで四回シリーズの投稿を終了したいと思います。


須藤 一郎

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